Cebuびと!FuMiさん未公開インタビュー

この記事をシェア

2024年7月25日

セブにまつわる著名人にインタビューする「Cebuびと!」。本誌では載せきれなかった未公開部分も含めた、FuMiさんのロングインタビューです!

――語学留学をきっかけにフィリピンに来られましたが、実際に訪れてどのような印象を受けましたか。

 

FuMiさん 語学留学をするまでフィリピンについて全く知らなかったので、到着するまでどんな国か想像がつかなかったのですが、すぐに「みんなめっちゃ優しいじゃん!」と思いました。当時、僕はYouTubeをやっていたのですが、日本でYouTuberと言ったら「大丈夫?仕事してないの?」と思われる風潮がまだあったんですよね。でもフィリピンの人達は、まだこっちにYouTuberなんて言葉すらなかったのに、僕がやっていることを「いいね」「クールだね」と認めてくれて感激しました。

 

 当時、ソーセージのようなものを売っていたローカルの屋台に飛び込みで「ちょっと動画を撮らせてほしい」「俺もソーセージを売ってみたい」とお願いをしたら、「全然いいよ」と二つ返事でOKしてくれて。当時の僕は英語が全く喋れなかったんですけど、お金の当番までさせてくれて、それはさすがに「出会って5分で信用しすぎだろ」って思いましたけど(笑)、でもそんな感じでみんな素直でピュア、それを一番に感じましたね。

 

――フィリピンの方と接して、FuMiさんの中で考え方が変わった点などはありますか

 

FuMiさん それはすごくありますね。僕はフィリピンに来る前は都内で働く普通の会社員だったのですが、当時は毎日満員電車に揺られて、日々生きてただけだったんですよね。だけどフィリピン来たときに、ちょっと違う感覚になったというか。フィリピンってやっぱり貧しい層の方も多いじゃないですか。例えば子どもとか、道端に座ってるおっちゃんとか、絶対お金ないはずなのに笑顔でいるのが強く印象にあって。それを見たときに「幸せってなんだろうな」ってすごい思ったんですね。日本人でお金に困っていたとしても、明日食べるものがないっていう人はなかなかいないと思うんですよ。でも、フィリピンってそういう境遇の人たちもいて、でもそういう人たちが笑顔で生活しているのが結構衝撃的で。逆に日本人はフィリピン人からしたら「いやもう十分お金持ってるでしょ」というレベルのはずなのに、未来のことを考えすぎて日々笑顔に生きられていない部分があるなと思って。「今を生きて今を楽しむ」といった部分は、フィリピン人からすごく学びましたね。

 

――語学留学はマニラでなさっていましたが、セブ島にまつわるエピソードについても教えてください

 

FuMiさん セブ島は、僕が初めてイベントを行った記念すべき場所です。僕がそもそもフィリピンでYouTubeをスタートしたのが、母親への生存報告のためだったんですよね。フィリピンに行くということでとても母親が心配していて、その反対を押し切って来たので、こちらでの生活の様子を動画に撮ってアップしていたんですよ。そうしたら、その中の1本の動画がフィリピン人からバズり始めて。当時フィリピンにYouTuberはいなかったから、ここで本気でやればフィリピンで一番有名な日本人になれるかもしれないって思ったんです。

 

 当時は社長になりたいっていう夢があったので、それを達成するためには影響力をつけた方が早いかもしれないとすごく考えていて。「よしやろう」って決めて、もうその日に通っていた語学学校を辞めて、YouTubeに集中し始めました。それで5ヶ月ぐらいして、チャンネルの登録者が1万人ぐらいまで増えたんです。でも、僕は当時急に日本の会社を辞めてフィリピンに来たので、お金もなくて、貯金もしてなかったんですよね。それで生活苦になって一旦日本に帰ったんですよ。でも、フィリピンに来るときに周りに大々的に「成功して帰ってくるから」って宣言していたので、帰って来たのが恥ずかしくて、誰にも帰国したことを言わずに埼玉に家を借りて、ひっそりと隠れて過ごしていました。

 

 でもそんな中でもYouTubeだけはやろうと決めて、フィリピン人向けに投稿を続けていたんですね。そのときに僕は「アルバイトをしない」というルールを決めていました。日本でアルバイトしたら、お金を稼げるじゃないですか。でも例えば1時間を費やして1000円は貰えるけれども、それって自分がやりたい未来に対しての価値がないって思ったんですよね。21歳の1時間ってもう2度と買えなくて、それが1000円かって思ったら、そうじゃないなって。だから、変にアルバイトをやって日々を生きるぐらいだったら、この時間はやりたいことに使おうと思って、絶対にYouTubeで稼ごうと決めたんですよね。稼げなかったらそれは自分の能力がないだけだから、ただ食べれなくなるだけだと思って。それで家賃5万円のボロボロの家で生活を始めて、動画をアップロードし始めるんですけど、1日あたり企画・動画撮影・編集に12時間ぐらいをかけて動画をアップロードしても、月の収益がトータルでいつも7万円ぐらいしかなかったんですよね。YouTubeの収益が日本とフィリピンで違うので、生活は本当にギリギリでした。暖房代の節約のために寒い中で震えながら動画を編集したりとか。ご飯はパスタを束で買って、茹でて塩ををかける「塩パスタ」を1日1食だけ。髪の毛も切れないし、恥ずかしくて友達とも会えなかったですね。

 

 そんなボロボロの生活をしていたある時、ふとInstagramのインサイトを開いてみたんですよ。当時僕のアカウントには3万人のフォロワーがいたんですけど、どんなフォロワーが多いんだろうって気になって。そうしたら、僕のフォロワーが一番多かったのがセブ島だったんですよ。それで「セブ島に行きたい」「セブ島でイベントやりたい」って急に思ったんですよ。フォロワーさんたちに会いたい、と思ったんです。でも、毎日ギリギリの生活をしていて髪の毛も切れない、ご飯も食えない奴がセブ島に行けるお金なんてないんですよね。どうしようと思ったときに、僕は父親からいつも「やりたいことがあったら口に出しなさい」と言われて育ってきて。よし、じゃあそれをやろうと思ってその日、文字通り家の外に出て、街で歩いているおばあちゃんとかいろんな人に「すいません、僕セブ島でイベントやりたいんですけど」って声をかけ始めたんですね。まあドン引きされるんですけど、とにかく喋ればいいんだと思っていたんで、よしこれをやり続けようと思って。会う人会う人に「セブ島のイベントやりたいんです」って言いまくったんですよ。そうしたら、ある人から「フィリピンフェスティバルっていうのが日本であるから、行ってきなよ」と、日比谷公園で行われるフィリピンフェスティバルの情報をもらったんです。

 

 それで僕はそのイベントに行って、やたらと「セブ島に行きたい、セブ島に行きたい」って言いまくってたんですよね。そうしたらあるフィリピン人に「君は何をしている人なんだ」と声をかけられて。それで僕は「フィリピンで有名な日本人のYouTuberなんだ」って言ったんですよ。そうしたら、その方が「本当か。君は有名人なのか」と話に乗ってきてくれて。「何が必要なの」と聞かれたので「ホテルと飛行機とイベントの会場です」と答えたら、「わかった用意してやる」と言われて。後から分かったのですが、その方がパシフィック航空のお偉いさんだったんですよね。それで航空券と系列のホテルの部屋、ロビンソンフエンテの会場を用意してくれて。「いつ行きたいの?」と聞かれて、すぐ行きたかったので「来週」と言ったら「OK、取っとく」ってすんなり話が決まったんです。もう家に帰ってすぐに動画撮って、「みんな、セブ島で来週イベントやります!Please come!」って宣言しました。

 

――まさにFuMiさんの行動力のたまものですね!

 

FuMiさん 「よっしゃ、やっぱり夢は叶う!」と思いましたね。そして本当にその翌週にセブ島に行ったのですが、1人で行ったので会場のロビンソンフエンテの方々にめっちゃドン引きされました。「有名人のはずなのに、マネージャーもいないのか」みたいな。さらに「会場設営は誰がするんだ」と言われて、何も考えてなかったことに気づいて。イベントが翌日の13時からだったので、「僕が9時から行きます」って言って、朝からロビンソンフエンテに1人で行って、「Where is chair?」ってガードマンに聞いて椅子を出してもらって、自分で椅子を100席ぐらい並べて。「Fumiya」って名前を紙に書いて壁に貼ってステージを作って、あとはステージ裏にずっと隠れていました。内心は「これでみんな来なかったらどうしよう」ってドキドキでしたね。これでお客さんが来なかったら、僕セブ島に出禁になるなと思ってたんで(笑)。ステージ裏からInstagramのストーリーで「今ここにいます!Please come!」って呼びかけて。それで時間になってたのでバッと外に出たら、200人ぐらい観客がいたんですよ。それで「うわ、すげえ!」ってなったんですけど、そこでステージで何をやるか考えてなかったことに気づいたんですよ。集客だけに注力しちゃってて。それで結局何をやったかというと、セブ島ってビサヤ語を話しますよね。その頃の僕はビサヤ語なんて何も知らなかったから、マイクを持って「What is “GOOD MORNING” in Bisaya?(ビサヤ語でグッドモーニングってなんていうの?)」って呼び掛けて、観客にマイクを渡して。そしたら「Maayong buntag(マアヨン ブンタッグ)」って返してくれるんですよね。それを僕がマネすると、発音が変だからみんな笑うんです。これを言葉を変えてひたすら2時間やりました。

 

――当日まで本当に手作りのイベントだったわけですね!

 

FuMiさん 本当に今から考えると冷や汗モノのイベントでした。でもお客さんは楽しんでくれてましたね。イベント終わりには皆さんと交流もしたりして。イベント終わりに「やりきった~、こんなことやってる日本人絶対いないわ」っていう充実感がありました。でも次の日にはもう帰る予定だったので、ステージ裏で「よし、日本に帰るか」って思いながらInstagramを開いたら、フィリピンの国民的番組と言われていたリアリティーショーの「ピノイ・ビッグブラザー」の方から連絡が来てたんですよ。これが僕の人生を変える2回目の運命的な出来事です。

 当時、その番組のためにフィリピンの何十か所かで10万人規模のオーディションが行われていたのですが、僕がイベントをやった日にたまたまセブ島でオーディションをやっていたんですよ。Instagramに来ていた「君は今どこにいますか」というメッセージを見て、「嘘!今セブ島にいるんだけど!」と驚いて。それですぐに返事をしてオーディションの場所を送ってもらったら、めちゃめちゃ近かったので「これは運命だ」と思いましたね。それでオーディションを受けたことが、今の僕の活動につながります。だからセブ島に行かなかったら僕はオーディションも受けていないし、そもそもあの時セブパシフィックの人と出会わなかったら僕はセブ島に来ることすらできていなかったので、本当にあの時はもうミラクルがいっぱい続きましたね。

 

――今年の6月12日にアーティストとしてデビューされましたが、どのような経緯だったのでしょうか。

 

FuMiさん 僕はリアリティーショーが終わった後から一気に芸能人になって、当時はレギュラー番組が5本ぐらいあってずっとテレビに出続けていました。フィリピンの芸能人って本当にいろんなことをやるんですよ。歌を歌ったり司会をやったり、コメディも演技も、ひたすらいろんなことを経験させていただきました。そして、コロナ禍をきっかけに日本に帰国して、2023年までは会社の経営などをやっていたんです。でも、やっぱり自分の中には「もう1回フィリピンに行って何かをやりたい」という気持ちがすごくあって。「フィリピンと日本の架け橋になる」というのが自分の使命だと思っているので、エンターテイメントでフィリピンと日本の架け橋になれるのは僕しかいない、やっぱりこれはやらなければならないと強く思ったんですよね。

 

 それで2023年の9月にまたマニラに戻ってくることを決めて、もう1回いろんなことをやってみたんですよ。映画に出演させていただいたり、今までやっていたYouTube、TikTokとかに力を入れてみたりとか。今こちらでポカリスエットさんのイメージキャラクターをさせていただいてるんすけど、いろんな島に行ってパフォーマンスして歌を歌ってみる活動したり。あとはアートもやってみたかったので、マニラの三越さんで個展をやらせてもらったりとか。それで2024年の1月になったときに、僕が今年29歳になって、30代をこれからどうやって生きていくんだろうと考えたんです。20代はタレント、YouTuber、経営者として生きてきたんですけど、30代は何をして生きていこうと思って考えたんですよ。そうしていろいろ考えた時に、日本での講演会の経験が浮かびました。

 

 僕は日本では講演会をさせて頂く機会が多くあり、その中で多くの方から感謝のお言葉を頂いてきました。それを受けて、僕にはこれまでの経験を礎に、言葉で人に好影響を与えることができるんだって思ったんですよ。でも一方で、人間ってモチベーションを保つのがとても難しいんですよね。講演を聞いてテンションが上がっても、1週間ぐらいすれば日々の生活に戻っちゃう。そうなったときに、僕はやっぱりハッピーなグッドバイブスをみんなに与え続けたいっていうのがあって。でも、講演会を毎日するのは無理ですよね。そう思ったときに、歌に自分の思いを込めて届ければいいんじゃないか、歌なら毎日でも聞いてもらえるんじゃないかって思ったんですよ。そう気づいて、自分が今まで経験してきたものを全て歌詞にして世界に発信していこうと決めました。

 

――名前をFumiyaさんからFuMiさんに変えたのも新たな意気込みの表れなのでしょうか

 

FuMiさん そうですね。音楽に集中すると決めてからは、これまで務めていた会社の代表もYouTubeチャンネルも全部やめることにしました。何かを取るなら何かを手放さないと新しいものは入ってこないと思っているので。リアリティ番組の出演以降ずっと所属していたフィリピンの事務所との契約もやめたんですよ。本当にいろんなものをやめましたけど、でも、新しいことに挑戦するということはそういうものだと僕は思っているので。それで全部捨てていって、最終的にはFumiyaという、これまでの名前もやめました。それぐらい過去のことで生きていくのは本当に面白くないなと思って。だからもうこれからは本当にゼロスタートですし、赤ちゃんになったつもりで自分の使命を全うしていこうと思っています。新たな名前であるFuMiは「For You Making Impact」という意味もあり、また「i」と「u」が小文字なのは、アーティストだからといって特別なことはなく「あなたと私は平等ですよ」という想いを込めています。

 

――今後の目標を教えてください。

 

FuMiさん やりたいことはまさに「メイキングインパクト」で、フィリピンと日本の架け橋をテーマに、日本語とフィリピノ語の両方を織り交ぜた曲を作っていきたいです。一方で、現時点でFuMiとして表に出ている曲はまだ1曲しかないので、今年中にまずFuMiというものの形、自分がやりたいことの方向性ををしっかり世間に知ってもらいたいと思っています。そして来年ぐらいからフィリピン全国でツアーができたらいいなと思っています。そして、3年以内には他のアジア圏、5年以内には世界というところでアメリカや欧州にも行きたいですね。僕はこれを本気で考えています。大きなチャレンジではありますが、同時にとてもわくわくしています。

 

――これからフィリピンやセブに来る日本人の方にメッセージをお願いします。

 

FuMiさん 日本人が持っていない感覚だったり、もしかしたら忘れちゃったりしている感覚をフィリピン人は持っていると感じます。それこそ「今を楽しむ」とか、性格がとてつもなく明るいとか、誰にでもとても優しいとか。そういう良さを感じられるのがフィリピンだと思うので、日本で疲れたりストレスを抱えたりした時に「もう駄目だ」と思うんじゃなくて、まずはフィリピンに来てほしいです。絶対に何かしら気付きがあるので。僕は本当にフィリピンが好きだから、そうやってフィリピンに来てフィリピンを好きになってくれる人がたくさん増えたらすごくいいなと思いますね。

2024年6月12日に開催した1stシングル「BENG」リリースイベントの様子

 

Cebuのお気に入り!「Robinsons Fuente」

フィリピンで初のイベントを行った場所です。お金も何のコネもない中で、当時Instagramのフォロワーが多かった「セブ島でイベントがしたい」という気持ちだけで実現にこぎつけました。会場の設営も自分1人で行い、内容は当日考えるという今では冷や汗モノのステージでしたが(笑)、それが現在の活動に繋がっていると思うと感慨深いです。

Advertisement